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2012年7月26日木曜日

クジラやらマグロやらうなぎの話し

漁師というのはほっとけばあるだけ捕ってしまう連中だ。彼らの好き勝手を許せば海の資源などあっという間に捕り尽くされるのは目に見えている。漁師は捕れるだけ捕り尽くし、市場はそれを冷凍し一年中売り尽くす。消費者は魚の旬など知るはずもなく好きな時に好きなだけ食い散らす。

彼らの生態系は根底から破壊し尽され、それは学のない漁師の手ではどうしようもない。川も湖も海もコンクリートで塗りつぶされてゆく。護岸工事をしたものは魚について無学で、発注したものは洪水対策に忙しい。工場からの排水で水が汚染されてゆく。川を汚すものたちは魚など見向きもせずに牛を食う。

魚達は文句を言う口も持たず、ただ息苦しそうに口をパクパクさせる。ただ生まれ育った場所を目指して長い旅に出る。途中で食べられたり死んだとしても、例え其こに辿り着かなくとも、彼らから文句のひとつ聞いたものはない。

何人かの人間は、魚が可哀そうだと船を駆って漁船と対峙する。鯨を殺す気なら、わしらはやっちゃるで、と彼らは主張する。マグロを滅ぼすつもりなら、わしらやっちゃるで、と彼らは主張する。うなぎを食い尽くす気なら、わしらやっちゃるで、と彼らは主張する。

私達は銛が打ち込まれるのを見るのが哀しかった。お前たち、どれだけ殺せば気が済むのかと。

彼らはそこに神を見ているに違いないのだ。これは一種の宗教戦争だから、魚には水銀が含まれているとか、増えすぎると自然のバランスが崩れるというような話しでは説得できやしない。牛や馬はどうなのだ、と言った所でキリスト教徒にイスラム教で語るようなものだ。

彼らは頭がいいのです、という説得は、私は信仰しています、に等しい。私は彼らの瞳にキリストを見たのです、くだらない話だ。イルカ漁をして生活している人は困るだろう。なぁに、十字軍でペルシャを困らせきった人達の末裔だ。今更、何度目の十字軍という訳でもない。

世が江戸時代なら、彼らはシャチの泳ぎ回る入り江で、鯨肉を食うか、それとも、入り江に突き落とされるかを選択しなければならないのだ。そして聞くのだ。

私を食べなさい、そのために私は生まれ、十字の銛で討たれるのだ。

そして、鯨達は今日も沈黙を守っている。


私を食べなさい、そのために私は生まれ、しらすとなってこの川に戻ってきたのだ。

そして、うなぎたちは今日も沈黙を守っている。

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